そういえば今日は終戦記念日でした。戦後40年経って生まれた私は、太平洋戦争もどこか「歴史の教科書に載ってる」みたいな感じなのですが。
漫画「この世界の片隅に」を読んでから、「戦争は普段の生活に襲いかかってくるもの」だと思うようになりました。
戦争もの、というより生活ものです。コロナ禍を生きるヒントにもなる漫画です。

私の2人の祖母は、戦争を体験した世代です。年も年なので、話がエンドレスループになることもあるけれど、戦争の話はあまりしなかった。ていうか聞かないと言わなかった。
戦争は空襲や爆撃だけじゃない。人の生活に入り込んで、じわじわと心を、感性を、蝕むものだと、祖母たちを見て思いました。
亡くなった父方の祖母は、おしゃれで笑顔の絶えない人でした。でも戦争のことを(宿題かなんかで)聞こうとした時、「あんな体験は2度としたくない」ととても厳しい顔をしていて、それ以上何も聞けませんでした。
中国のことを「支那」と呼び、旅が好きだったものの(70過ぎてロシアとか行く!)、決して沖縄やアジア圏には行きませんでした。決して。
今も元気な母方の祖母、明るいお酒好きのおばあちゃん(先日も盛況でハイボール箱買い)。祖母は終戦の日、「お腹が空き過ぎて、悲しいだの何だの、何も考えられなかった」といいました。大阪市内から疎開にくるような田舎にいたというのに。
物がないからランドセルも紙製。結構可愛かったけど、1ヶ月で壊れたそうな。
あとは他の国への偏見。「あそこの国の人らは人さらいやから気をつけろ」というめっためたな偏見が、普通にまかり通っていた。大人が言ったら子供は信じるよな・・・
祖母ももれなくその考えを受け継ぎ、アジア圏の国には決して好意的ではありません。
子供だった祖母たちは、じわじわと、学校から、親から、生活から、戦争の思想に染まっていったのだと感じました。そして染まった色は消えない。

原爆は広島と長崎に落ちました。
広島の話は漫画やドラマにもなっていて、私も読みました。修学旅行の平和祈念館の展示内容が結構ショッキングだったのを今も覚えています。
でも、原爆が長崎に落ちた話、あまり聞かなくないですか?長崎に旅行に行った時にも「あれれ?」と思って。調べました。そこには言葉を失うほどの歴史がありました。
長崎に原爆が投下された場所は、「浦上天守堂」のある付近なのです。
そこは昔、被差別部落の人々が生業を営みつつ。弾圧対象である潜伏キリシタンを監視していた場所。(被差別民同士を敵にして、憎しみあわせた構図が恐ろしい)
長崎中心部から、ちょっと離れています。位置的には東京の足立区、京都でいう南区、神戸で言うと長田区くらいの場所。
そんな場所に原爆が落ちて被曝者という、さらなる偏見をもたらした。もう、言葉にできないくらいの歴史があったと知り、ショックを受けました。カステラ食べてる場合じゃない。食べるけど。
その詳しい説明については、リンクを貼っておきます。
http://naga-jinken.c.ooco.jp/shiryo/fieldwork-2.htm
戦争はじわじわと人の心も、体も、生活も蝕む。だんだんと、見えないところから。(今のコロナウイルスも近いものがあるかもしれませんが)
あれから75年が経ちました。
8月15日の今日、私は、韓国の音楽を聴いて、アイス食べて、昼寝して過ごしました。75年前には信じられないような事が、日常になりました。
おじいちゃん、おばあちゃん、あなた達の子孫である私は、割と幸せに過ごせています。今年のお盆はショボかったけど許してな。コロナウイルスという新しい戦いがあります…

ちなみに韓国で8月15日は「光復節」という、日本からの独立記念日なのですね。
恥ずかしながら知りませんでした。日本は被害者でもあるけど、加害者でもあった。大好きなBTSのご先祖さんに酷い事をしたかもしれない、軍隊の方のアーミーが。これはARMYとして複雑。でも忘れちゃいけない。
人が生きている限りは、残酷なことも、悲しいこともあって、でもそこから人は這い上がる。
そしてどんな時も生活はある。毎日の生活の中には、必ず光が差し込む瞬間が、ある。洗濯物がパリッと乾いたとか。お好み焼きがうまく焼けたとか。
一日一日、こつこつと、地に足をつけて、自分の手を使って生活をしていくことが、「ちゃんと生きる」ことかな、と思った、終戦記念日の今日でした。